社会になじめない

 ついに社会不適合病をこじらせにこじらせ、自転車に乗るために大学を休学してしまった。博士課程に進むつもりで、大学から20万円/月を五年間もらえるという奨学金を獲得したにもかかわらず、だ。研究室に入るとわかると思うが、これは割と破格の対応である。破格の対応とはいってもあくまでも研究室の中での話であり、普通の京大卒はもっと稼ぐし社会保障も充実しているし住宅手当やらなにやらもらえるわけで、結局のところ、普通の京大卒よりも控えめな人権しか与えられないのに代わりはない。まあなんにせよ、普通の博士課程の人間には人権があたえられないところ、ささやかながらも人権を確保できたわけなのに、それも放り出して、自転車に乗ることに決めた。
 それなりに悩んだ。悩みに悩んだ。しかし、「研究に自分の人生をかけられるか」と考えたとき本当にかけられるかどうか自信がなかった。自転車に人生かけられるかと聞いたら、答えはイエスだったのだ。少なくとも今のところは。やっぱり人生一回なんだし、好きなことやらんとしゃーないと思った。目標はでっかくいきます。ばかにされそうなんでここには書かんけど。

 やめるにあたっていろいろ悩んだことや考えたことがあった。

 まず一番思ったのは誰も人の人生には興味がないということだ。良くも悪くも。今日、先生方や先輩の皆さんにこのことを打ち明けたんだけど、割りとあっけらかんとしたもので驚いた。自分の人生は自分の人生で、他人の干渉によって、他人のご機嫌を取るために決められるべきものではない。
 二つ目は、自分という個人の交換可能性についてである。自分の研究室に対する貢献度は小さいものではないと自負していたが、結局世の中自分がいなくてもそれなりに回るのである。これは、4年生のとき、手術や入院したとき、チャリ部が回らなくなったらどうしよう、と焦ってたけど普通に部は回ってたときのことを思い出させる。その時はそれなりにショックだった。自分はそんなにも交換可能な人材だったのかと。残念ながらよっぽど専門性の高い能力を持っていない限り、自分という個人は他人と交換可能である。自分がいなくても世界は回る。今回はそのときの経験があったので、まあそんなもんやなと、自分が交換可能な人間であることを受け入れられた。とにかく、自分は所詮交換可能な人材であるので、どこぞのコミュニティをやめるのはそんなに覚悟のいることではないし、そのコミュニティの人間に対してそこまで気を払う必要はないのかもしれないと感じた。
 三つめは、いかに自分が感情ベースで動く人間かということである。楽しそうならやる、つまらなそうならやめる、というレベルでしか私はものを考えていない。当然人を説得するにあたってそれなりの言葉は紡いできたが、しょせん後付けのものである。感情ベースで結論をだして、あとから論理付けをする。おれってなんてどうしようもないんだろうとも思うし、人間そんなものなのかもしれないとも思う。

 何やかんや書いたけど、まとめると、人間そんなに人に興味持ってないし、自分は交換可能な人間のうちの一人なんで、感情に任せて新しいことを始めたり何かをやめたりしても社会的にはそんなに問題ないということだ。みなさん、やりたいことをやりたいようにやろう。人生は一度きり。やりたいことをやらないでジジイになった自分の姿を想像してみよ。悲惨だと思わないか?
 
追記
社会的に問題ないは言い過ぎか。問題があるんだけれども、誠意をもってお願いしたら、私ぐらいの穴ならカバーしてくれるということ。カバーしてもらって当然ではないし、誠意をもって、というのは絶対必要だろうとも思った。