何を為すのか?何をしているのか?

何をしたのか?何者であるのか?はどうでもよい

plan
今年:個ロード完走、tt入賞、インカレ入賞
今月:練習量をピーク。強度上げてく
今週:同上

do
19休み

20休み
免許証、学生証ゲットだぜ

21 白浜自走
スタートは岡本さん、山本、サトルと。とりあえず序盤は省エネ意識。五條までで引いたの1時間ぐらい。五條後。体は元気だが、なんだかドキがムネムネ。調子いい感じ。そっから引いたりローテしたり。十津川前でサトルのタイヤがお陀仏。ここでサトルとバイバイ。そっから3人でグルグルしながら十津川へ向かう。これがめっちゃしんどい。足湯からみんなで走る。山本、岩見が死にかけ。それを無視して暴れる松山。十津川、本宮間の下りで岩見が落車。私の目の前であった。「大丈夫か?」より先に「アブねー」って叫んだのは人としていただけなかった。ここで岩見とバイバイ。その後岡本さん、牧さん、向井田と共に白浜を目指す。本宮後の登りで岡本さんがかちあげる。私と牧さんは発情期の猿みたいな声を出しながら登る。何とか食らいついたものの、その後の向井田のペースアップで千切られる。

22 空港×4
前日にダイソーで水鉄砲を発見。私と向井田のイタズラ心が燻られる。皆前日の疲れで死にかけの中、2人だけワクワクが止まらない。ある程度乗ったら、先輩方や後輩達に発射しまくってあそぶ。満足満足。

23 新宮

24 本宮

  

以下私の事故について・・・
 事故のことやこれからにつて日誌に記すべきと考えていた。しかし新歓期だし、みんなの親御さんもこの日誌を見てるから、こういう話は控えたほうが良いだろう。ここならひっそりとかけるから良いのではと思い、記す。
 3月2日合宿最終日。例年通り自走で京都へ向かう。本宮の登りまでの記憶はある。気がつけば病院のベッド。そのかんの記憶は、横たわった自分が両親や須須田さんを見上げてたことだけ。それなのに何故か看護婦さんからの手当を当たり前に受ける。(今にして思えば、半覚醒状態の記憶がどこかにあったのだろう。)「変な夢だな」と思いながら、もう一回ねれば海の家で朝を迎えるだろうと眠りにつく。起きても未だ病院。看護婦さんに日付を聞くと3月6日。訳がわからん。そこへ牧さんと向井田がお見舞いに来てくれる。そこで初めて自分が置かれた状況を理解する。以下の内容は、牧さんと向井田含めていろんな人から聞いた私の空白の4日半の物語である。
 合宿最終日、本宮の下りのトンネルにて。一緒に走っていたのは向井田、木田、岩見。対向車線ではダンプ、乗用車が続く。隊列は私が最後尾。乗用車がダンプを追い越す。ちょうどその時。我々がダンプとすれ違うタイミングだった。トンネル内は歩道があったものの、ガードレールで仕切られ、逃げきれずサイドミラーで跳ねられた(バンパーにも当たったらしいがよく分からん)。そして後頭部を叩きつけたのかな?頭も重症。一緒に走った3人については、岩見が腕をガードレール?で切ったらしい。3人とも命に別状は無く何よりである。それに3人は、私の凄惨な事故現場に立ち会うという事態に見舞われたが、自転車を続けられているので安心した。事故後の私は随分と暴れたらしく、3人には事故後の処理含め、なにかとお世話になった。ありがとう。事故後私は救急車で白浜を超え田辺の病院まで搬送される。私の怪我は、脳挫傷くも膜下出血、頭蓋骨骨折、急性なんとか、右鎖骨骨折、肺挫傷、腕と顎を縫う傷。医師から2日ぐらいが山って言われたらしい。今にして思うと、自転車生活の最後にして人生最大のヒルクライムが待ってたわけですわ。そう思うと、花背とか山形村とか屁みたいなもん。無事完走を果たし、一命をとりとめる。命は助かったものの、私の意識は依然ハッキリせず、会話もろくにできない状態。お見舞いに来てくださった須々田さんを始めたくさんの人に迷惑をかける形となった。本当にご心配をおかけしました。申し訳ありません。両親にも相当の心配をかけてしまい、今回以上の親不孝はないと感じる今日である。そして3月6日を迎え、私が目を覚ます。
以上が私の知らない私の話。3月6日、2人から事故の話を聞いてようやく事態を飲み込んだ。別に悲観することも無く、この事故でピンピンしていることを不思議に思う。同時に「神に愛されている」とも思った。正直この時はまだ西チャレに間に合うかを考えていた。なんなら、「合宿後知らぬうちに一週間近く休養に当てれてラッキー」とか思ってた。その後も木田がおみまいにきてくれた。さらには、高折先生までお見舞いに来てくださった。お忙しい中ほんとうにありがとうございます。(これは余談だが高折先生が来られた時、病院の先生や看護婦さんたちがおののいていたのが面白かった。高折先生の威厳を再確認した時だった。)8日、両親と木田、向井田が来てくれた。私の担当の先生から怪我のこととか聞いたりしてた。医療ドラマでしか聞かないような単語が並んで、自分の置かれた状況を再確認。もう退院して大丈夫だったが、親の都合等で14日に延長。こっから退院までは退屈の極みで書くことは皆無。迎えた14日。帰郷。京都市内の病院に通ったりしながら日々を送った。下鴨病院で鎖骨、京大病院で脳の診断を受ける。
 鎖骨の話。一見レントゲンを見ると綺麗に真っ二つに見えるが、実際は三つに折れてる。さらにおってからしばらく経っていたのでちょっとくっついてる。そう言う訳で手術。くっつきかけの骨を剥がし、整列させ、プレートをくっつける。無事成功し、現在に至る。
 脳の話。脳は和歌山で十分に回復し、京都では問診だけだった。それでもまぁまぁの話をされた。確率はそう高くはないものの、後遺症として”てんかん”が発症する可能性があると言うのだ。つまるところ、無意識のうちに痙攣し意識が飛ぶようになるかもしれないらしい。厄介なことに”てんかん”はTPOを知らない。自転車乗ってる時に起きたらまず死ぬよねっていう話をされた。確かに練習中発作が起きれば、大自然にダイブor車に突入。ついでに周りも巻き込む。来月起こるのか来年起こるのかも分かんないらしい。話にびっくりして、いつまで耐えればいいか聞きそびれた。外傷性てんかんについての論文とか見てたけど、どうも2年が一つの基準らしい。外傷性てんかんを発症する人のほとんどが2年以内に症状が現れてる。事故から2年をすぎて”てんかん”が起きても、事故以外が原因って考えれるぐらい。ようは2年何も起こらないことを願うしかない。